●母の荷物の整理
>父親から母への葉書を見つけた。そこには、「もっと素直になればよかった」と書かれていた。
熱烈な恋愛結婚だったとは聞いていた。でも、もうそんなレベルの問題じゃないだろう。「ふざけるな!これだけ家庭をメチャクチャにしておいて好きだ惚れたもないだろう!」正直、そう思った。
母は、娘達がこんな人間になってしまったのは半分は自分の責任だと考えていたと思う。父親はその責任をどう感じているのか、疑問に思う。私が”間違った人生”を歩み(父親は、人生をやり直した私のことを、このように娘達に吹き込んだ。)、その責任を全て母に押し付けるような人間が「素直になればよかった」とは何事か!
~~~ドイツは第二次世界大戦後、自らを裁いて世界に謝罪した。そしてそのドイツの首相がアメリカ大統領にこう言った。「国の首たる者は”怒り”を持たねばならない。」”怒り”は”憎しみ”ではない。”怒り”とはたとえば、今の自国の社会はこういうところが間違っている、正さなければならない、それを”怒り”と言うのだ、と。
私も、父親やきょうだい達を”憎もう”とは思わない。しかし彼等のやっている事は”間違っている”。その事に対しては”怒り”を持っている。だが、私は”正そう”とは思っていない。それをしたところで彼等が考えを改めるどころか醜い争いにしかならないだろうし、何より親としての責任を全うしようとした母が悲しむだけだ。彼等は自分達のした事は自分達で責任を負うべきなのだ。彼等は、私にしたように周りの人達に対しても同様の事をしていると聞く。そしてその責任を相手になすり付けている。(本人達の口からそのように聞いている。)でもそれは、いずれは自分達に帰ってくる事なのだ。私が手を出すまでもなく。
>母の離婚当時の日記が出てきた。
これはきょうだい達の手に渡ってしまうと都合の悪い物として抹殺されてしまう恐れがあったので、その存在は明らかにせず私が保管することにした。母の親族の一部の方にも、共有してもらっている。一つ、重要な事がある。ここには公開していないが、母が離婚独立のため(?)に勉強に通っている間にたのんでいた家政婦さんに宛てたメモを見ると、母は決して私の事だけを心配していたのではなく、子ども達全員を平等に心配していたことがうかがえる。父親が離婚後きょうだい達に吹き込んだように、私が母を独占したのでも母が私だけを思ってついて来たのでもない、母はそのような愚かな人間ではない。
今になってこの日記を読んでいると、涙が溢れてきて止まらない。高校生の私はまるで、幼稚園児のようだ。父親の精神的虐待で、15歳の自分がこんなにされていた事実に悔しいばかりだ。この状態から一人の人間として自立できるまで、30年もかかってしまった。この日記は、そんな私の出発点を記した貴重な記録でもある。


この日記の中には、姉に誘われて父親の家に行ったことが記されているが、父親から「お前本来の姿に戻れ」とか「お前の母親は間違っている」と言われたことは私も今も覚えている。(数十年後きょうだい達と母の間を取り持つため単身父親の家を訪れた時も、全く同じ事を言われた。)が、母はこの事で私には一言も言わなかった。母がこれほど怒っていたとは、この日記を見るまで私は全く知らなかった。母は、私が父親に憎しみを抱くような事は一度も言ったことはない。
また、47年1月の日記には、”この子は自分で立ち上がらなければならない”と記されている。私は母から「こう生きろ」と強要されたことは一度もない。にもかかわらず、私がそういう道を自分で選んでいたのは、母の先を見る目であり愛情であったと改めて想う。
>ある雑誌に、北海道家庭学校(教護院)に転入した子どもに関する記事が載った。記事を書いたのは、家庭学校の先生(寮長)である。私と同じ境遇で育った子どもがどういう生き方を選ぶべきか、この記事を読んで、自分も早くにこの心境にたどり着きたかったと思った。以下、記事を要約して引用する。
その子どもは、父母の不和から家庭が崩壊したために荒れてしまい、居住地の小学校では手に負えず、精神病院に入院・退院・復学後やはり小学校では対応しきれず家庭学校に転入してきたのである。
入学して数日はその突貫小僧ぶりに、先生もどう対応していいのかわからなかった。しかしある日の授業中、精神科からもらってきた薬の強い作用で眠りに入る前の朦朧とした意識の中で机に突っ伏して書いた一枚の紙切れに「かみさまおねがいします……お母さんが、はやくお父さんとなかよしになってもらいたい」と書かれているのを見つけた時、先生は涙がこぼれてしかたがなかった。「彼は病気なんかじゃない!、もう薬を飲ませてはいけない。」薬を止めたことによる悪い影響は、一つもなかった。
同寮の子ども達の多くは、両親離婚という辛い現実を背負っていた。その中で、遠い所から実の父が実の母が彼に会いに来る、両親が離婚していない生徒の次に幸せ者だという雰囲気が出てきたことが、彼の心に変化をもたらしたようだ。目立って皆の中にとけ込んできたのである。そして日記に「僕が大人になってお父さんになったら、ぜったいお母さんとわかれないようにします。もしわかれたら、子どもが”あばれ”ます。」とあるのを見つけた時、先生は黙ってうなだれてしまった。
ところがその後、お母さんから再婚の知らせがくる。先生は、「彼はお父さんとお母さんが復縁することを心底から願っていましたよ」と伝え、「(父親と母親の)どちらにつくかは本人の意思です」と電話を彼に代わった。お母さんは彼に、再婚をどのように伝えたかはわからない。でも、電話を置いた彼の表情に先生は、息子の”怒り”をはっきり見たのである。
先生はその後、父母の住む地へ、”子どもを引き取りたい”と言っていたお父さんお母さん両方の状態を確認しに出向いたが、双方とも彼を輪の外に新しい生活が回っているのを見て、腹が立って腹が立ってたまらなかった。学校に戻った先生は彼と真正面から向き合い、ここを出ても一人で生きて行かねばならないことを告げたのだった。
その後彼は、お父さんに手紙を書く。「お父さんも結婚して下さい。父さんは父さん、母さんは母さん、僕は僕です。」この手紙を書くまでになった、彼の長年の苦労。
以下、記事の文をそのまま引用させていただく。
もしも、この雑誌を読む機会があったら、父さんと母さんよ!お互いに怒り合い、傷け合い、別れる前に子どものことを考えてほしかった、と僕はいいたいのだ。○○君は、精神病者にまでされかかったのだ。大人の愛情とセックスのはざまに、置き忘れられた少年の心が、真実、何を求めていたか、思いだしてほしいと僕は思うのだ。
この記事を読んでいると、私も涙が止まらない。状況は少し違うけれど、私と彼とは根っこにあるものは同じだと思う。母の日記から当時の私がいかに”荒れて”いたか、そしてその原因が何であったか。また彼が”ここを出ても一人で生きて行かねばならない”とは、まさに母が私に願ったそのままではなかったか。
実は私は、記事にある北海道遠軽の家庭学校に教育学部の研修で行ったことがある。普通の、元気いっぱいの子ども達だった。あの頃は自分が何者で何をすべきか全く分かっていない時代だったので、お世話になった皆さんには大変に迷惑をかけてしまったと思う。でも、この記事を書いた先生のように、お父さんとお母さんが別れたら子どもが”あばれ”ます、の文を見て、私もうなだれてしまった。
当記事は私は大切に持っているのであるが、著作権の問題があると思われるので全文の公開は控える。もし直接読みたい方は、「こどものしあわせ 1980年11月臨時増刊号 ”かみさま、お父さんお母さんを仲良くさせて”」で探していただきたい。
また、家庭学校については、ホームページが公開されている。
https://kateigakko.or.jp/
2025.04.14.記述
2025.05.29.修正
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