被虐待体験と自立への足跡・3.小学校(3年~6年)

公開開始:2025.07.16.
内容更新:2025.11.08.

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●学校の記憶
 3年生から担任が女の先生に代わった。この先生には随分いじめられた。”怒られる”というより、陰湿なものを子どもなりに感じていたので、私はこの先生が大嫌いだった。5年生になる時クラス替えがあると聞いて担任の先生も替わるだろうと喜んだが、同じ先生のクラスになってがっかりしたことを覚えている。担任が「この子は私が見る」と言ったかどうかは知らないが、小学校卒業まで徹底していじめられ、私にとって家庭も学校も地獄の毎日だった。ただ、時代的にそういう手段を知らなかったせいか、登校拒否はほとんどなかったと思う。(サボりは何回かあったと思うが。)
2025.04.03.記述
●学校の記憶
 3、4年生の頃だったと思うが、決まりを破って学校におもちゃのパチンコ(ゴムで小石などを飛ばす道具)を隠して持って行ったことがある。昼休み、グランドに出てそれで遊んだ。そして午後、担任の先生から「近くの家のガラスが割られた。割って逃げて行った子があんたに服装が似てるそうだけど、あんたじゃないのか。」と問い詰められ、パチンコは隠したまま(正直言って人の家もガラスも狙って打った覚えがなかったので)「知らない」と答えた。しかし、帰りにそのパチンコが先生に見つかって…。その後はよく覚えていない。
2025.04.03.記述
●学校の記憶
 6年生の時だったか、何かの時に私の所業の事でクラスで話し合いが持たれた。先生は私を非難し、クラス全員にどう対処するか話し合いを命じた。私は皆から非難され、延々と吊るし上げられた。そして、一人の男子児童が立ち上がってこう言った。「みんなでいじめて、かわいそうだ。」その一言で、その話し合いは止めになった。彼はクラスでも”ゴリラ”とあだ名されて決してリーダー的存在ではなかったが、当時の私には分からなかったが今は彼の勇気ある行動にとても感謝している。この時期の自分を捨て去った私にとって小学校の同級会には一切興味はなく連絡もしたこともない(死んだと思ってるだろう)が、彼にだけは会ってお礼を言いたいと常々思っている。
2025.04.03.記述
●虐待の始まり
 家庭では、私に対する折檻(虐待)が始まった頃かと思う。最初の頃は、真冬の零下20度になろうかという雪の夜に素っ裸で外に出された。「入れて、入れて」と泣き叫んでいたことを覚えている。しばらくして玄関の中には入れてくれたが、「お前は犬以下だ。犬のメシで十分だ。」と寒い玄関でドンブリ飯の上に皆が食い残したおかずと味噌汁をぶっかけたもの(中学生の頃飼っていた犬に与えていたのと同じもの)を食わされた。
 そのうち、外で夜な夜な子どもが泣き叫ぶのが近所に聞こえるのはまずいと思ったのか、折檻は家の中央にある廊下で行なわれるようになった。(泣き声が外に漏れないようにするためであろうが、裏のお宅には聞こえていたと思う。)そしてそこで「尻を出せ」と言って、ムチ(ズボンのベルト)でひっ叩くのである。それも、”罪”(一般社会的罪というより、父親にとっての罪であるが)の重さに応じて20とか30とか数を決めて打つのである。100叩かれた記憶はないが、50の記憶は残っている。たいてい、20~30だった。子どもにとって、泣き叫ぶ以外の何ものではない。それが、毎週のように繰り返された。前の日に叩かれてベルトが背中から腹の方までまわり、ミミズ腫れになっているところへまた叩かれる、ということもあった。一度だけ、母が止めるよう懇願したことがあったが、「お前の教育が悪いからだ」と母も叩かれ、以来母は止めに入ることはできなくなってしまった。
 自分の子が目の前で、自分の一打ちごとにミミズ腫れになっていくのである。しかも、自分が決めた数は減らすことなく叩くのである。叩いた父親は、どういう神経をしていたんだろうと不思議に思わざるをえない。(後々になって、父親は私を他人の子だと思い込んで憎しみをぶつけていたらしいとわかった。~さらに、己の非を正当化するために、叩かれた私が叩いた父親を憎んでいると、離婚で自分が引き取った子ども達に吹き込んでいた。現在の私は父親は捨てたので”憎しみ”も捨て去ったが、「間違っている」という”怒り”は忘れない。<補足:当ページ「◆この時期に想う事(2)」>)
2025.04.03.記述
2025.11.08.追記・修正
●密告の家庭
 父親は私の上の妹に私を監視させ、密告させた。その妹は小学校に上がる前から平然と密告を繰り返し、その情報を元に私が折檻されるのが常だった。私は、きょうだい達も母すらも信じることができなくなっていった。
 6年生の時だったろうか、私がいつものように廊下でムチで叩かれていた時に、密告した上の妹がそれを見て笑っていたのを今でもはっきり覚えている。私はその直後、自分のノートにその妹を”殺してやる”と書きなぐった。ところが、向こうでそれを見ていた父親が寄って来て「何を書いてるんだ。見せなさい。」(父親は私の日記を毎日”検閲”した)と言った時は凍りついてしまった。殴り殺されるかもしれない…。父親はノートを取り上げ、ページを開いた。しかしそのノートの最初のページには別の事(飛行機のある部分の図とその名称のメモ)を書いてあったので、それを見た父親は「自分のやっている事に自信を持て。正しい事をやっているなら、人の目は真直ぐ見れるはずだ。父さんの目を見なさい。」と父親の目を直視させられた。”これがウソつきの目だ”と、子どもながらに思った。(この家庭の中で父親によって行なわれている事は、正しい事ではないと当時から感じていたのだろう。)
2025.04.03.記述
2025.05.29.修正
●拾った子犬
 どこで拾ったかは覚えていない。家に連れて帰って母に見せた。父親も帰って来て、どうするか両親で話し合ったのではないかと思う。家では飼えないと近く(といっても1kmも離れていたが)の小鳥屋さんに引き取ってもらうことになり、連れて行った。
 しばらくして気になったのでその小鳥屋さんに自分一人で訪ねて行ったら、死んでしまったという。私は悲しくて悲しくて、家に帰って、当時家にあったビーズで絵を描くおもちゃで「犬」「死」と文字を作った。その時たまたま母が通りかかって「何してるの?」と覗き込んだので慌てて手でバラバラにしようとしたが、張り付いてしまっていて崩すことができずしっかり見られてしまった。
 多分その事がきっかけになって、後々家では犬を飼うことになったのだと思う。
2025.08.18.記述
●「反省文」
 父親はよく、罰として父親の部屋に監禁(外から鍵をかけられ)されて、「反省文」を書くことを強要した。当然、学校も休まされた。最初の頃は何を書けと言われているのか分からず、考えた事を書けと言われたから正直に「ヤキイモ屋さんの音が聞こえる」と書いたら、夕方仕事から帰った父親はそれを見て「こんな事しか考えられないのか!」と怒り、次の日も次の日も監禁され、父親の納得する事を書くまで許してもらえなかった。
 父親の部屋は2階にあったが、窓から1階の屋根伝いに抜け出して野っ原で遊んでいたこともある。多分、母は知っていたろう。父親は、「自分は悪い事をしました。もうしません。」、「そのためには何をどう考えて行動します。」という事を書かせたかったのだろう。でもその「悪い事」は今から考えても社会一般で言われるような事ではなく、「父親の言う事(価値観というより私を人扱いしない)を聞かなかった事」であったから、私は「嘘」を言わせられていると心の中では思いながらも従わざるを得なかった。
 今ではそれが「嘘」(人間としての嘘)であったとはっきり認識しているし、大体そんなやり方で人の考え方を「矯正」できるとでも思っているのだろうかと呆れてしまう。そんな事があったせいか、私は「口だけの嘘」と「人間としての嘘」は見抜ける人間になったのだと思う。だから、人間としての嘘でいかにも”私は正論者だ”という顔をする御大人からは、徹底的に嫌われるのかもしれない。「嘘」がバレることが、相手にとって恐ろしい事なのだろう。でも私はそんな人間とはお付き合いしようとはこれっぽちも思わないので、それでいいと思っている。おかげで”世渡り”は、すこぶる下手である。
2025.08.22.記述
●日記の検閲
 いつ頃からは覚えていないが、日記はほぼ毎日検閲された。そして、父親の納得するまで書き直しをさせられた。
 4年生か5年生の時だったろうか、父親の元へ書いた日記を持って行ったら「〇年生にもなって、こんな事しか考えられないのか。これではまるで2年生だろ!」と突っ返された。私は「これでは2年生の考えだ。」と強制的に書き直しをさせられたのを、今でもはっきり覚えている。
 実はこの日記帳、母が認知症で仕事を辞めた時、母の荷物の中から出てきた。ページをめくっていたらこの文章が出てきて、強制的に書かされたのを思い出した。(その時はもう、父親は捨てて自分を取り戻していたのでフラッシュバックはなかったが、日記を検閲するようなやり方で人の心を操作できるとでも考えていたのか、不思議に思う。)

 かなり後になるが、父親は私を母が不倫してできた子だと勝手に決めつけていたようで、こいつは人間以下のヤツだから、「教育してやれ」と思っていたのだろう。そこには「自分の方が立派な人間だ」という”思い上がり”が見え隠れする。
 ”思い上がり”というのは言い過ぎと思われるかもしれないが、事実私が自立していく段階で自分自身の気付かない”思い上がり”に随分と悩んだ経験があるからだ。人を見下せば嫌われる。どうする事が人を見下す事になるのか、なぜそれがいけないのか、それを学ぶ環境が我が家にはなかったし、逆の手本の中で育ってしまった故に、”人から嫌われる”経験を通して学び取るしかなかったのだ。
2025.08.22.記述
●オリンピック聖火
 5年生の時、東京オリンピックの聖火が我が町を通った。丁度その時私は例によって「反省しろ」と父親の部屋に軟禁され、反省文を書かされていた。一週間くらい学校を休まされ軟禁されていたと思う。しかし、「聖火が通る」ということで小学校挙げて沿道に出て見送ることになった。「一生に一度のことだから」と、その日だけ学校に行かせてくれたのを覚えている。そして次の日からまた学校は休まされ、反省文を書かされた。そんな状況だったせいか、聖火の姿は全く覚えていない。
2025.11.08.記述
●自転車事故
 6年生の時だった。運動神経の悪かった(というか悪く育てられた)私は自転車に乗り始めて、公道に出てバスにぶつかった。通り過ぎたバスの最後尾にヨタって引っ掛けられたのだ。すぐ近くの医院に運ばれ、5針ほど縫った。父親は私に向かって「お前のせいで運転手さんはクビになったんだぞ」と言った。
 何年か後、母に連れられて母の実家に行った時、伯父さんがどこかの神社に連れて行ってくれた。そこでバイクにはねられそうになった時、伯父は物凄い勢いでその運転手を怒りつけた。とても印象に残っている。そしてそれが親としての当然の感情であると認識できたのは、私が世間の中で真っ当に暮らせるようになってからだった。私の父親は、(きょうだい間でも)私をキズつけた相手に怒りをあらわにしたことは一度もなかったからだ。
2025.11.08.記述
◆この時期に想う事
 とにかく皆にいじめられ、孤立した時期だった。普通なら友達関係の中で人間性が育まれる時期である。先生からはいじめられ、家に帰れば密告者に見張られる世界。でもそれが”異常”な世界とは気付けなかった。家でも友達とはあまり遊ばせてもらえなかったのも一因だろう。父親からは蔑まれ、周囲からは嫌われる。私が持ちこたえることができたのは、父親によって毎日”検閲”される日記を含めて、心を貝のように閉ざしていたからだと思う。母に対しても、心中を読まれることを頑なに拒んでいたことは、子犬の1件を思い起こしても確かにそうだったと回想できる。もし心の扉をこじ開けられ、中を踏み荒らされていたら、”荒れて”しまって人の心を踏みにじっても何とも思わない人間になってしまったに違いない。
 今から思えば、他人に対する劣等感が根深く植え付けられた時期だったと思う。その劣等感には、その後も悩まされた。なかなか人の輪の中に入って行けなかったのは、その結果だと思う。その後自分から積極的に人の中に入って行くことで乗り越えたように見えるけれども、今なお克服し切れていないのを自分では感じている。たとえば若い人達の多いチームに所属していながら、なかなか若いメンバーに話しかけられない。そこに当時の劣等感がちらついているのを、自分でも認識している。
 多重人格をテーマにした特集番組があった。「24人のビリー・ミリガン」である。多重人格は子供時代に虐待を受け、自分の心だけでは耐えきれずに自分の中に他の人格を作り出し、「今受けている苦しみは自分ではなく、自分の中に居る他の人が受けている」と思う形で生み出されるという。思い返してみれば、私にもその気配があった。帰りの暗い夜道を、「他人」になって歌を歌いながら歩いたのを、はっきり覚えている。小学校低学年の頃だ。暗闇の恐怖、安心感のない家に帰る恐怖から、自分は「他人である」と思いたかった。虐待されるというのは、そういう事かもしれないと、番組を見ながら思った。

 子犬の件で、不思議に思うことがある。拾った子犬の後、家で飼い始めた犬は、血統書付きだった。父親は周りより「上等」である事を常に見せびらかしたかったところがあって、私はそれが大嫌いだった。ただ、犬が嫌いなわけではない。犬には責任はない。私は中学生の時、毎朝学校に行く前にその犬を連れて散歩に出かけ、父親が出かけるまで家に帰らなかった。(おかげで私はクラスで2番目の遅刻常習犯になった。)犬は私の心を癒してくれる存在だった。一方で私が自活するようになって飼い出したネコは、全てノラ、捨てられて拾ってきたネコだ。そして、今までで一番想い出深いネコが亡くなった時、私は悲しくて墓を作った。その時ふと思った。昔家で飼っていたあの犬が亡くなったと聞かされた時、自分は全然悲しくなかった。このネコは亡くなって、なぜ悲しいのだろうって。~そのネコの遺影は、今も仏壇に飾っている。彼女のおかげで、私の人生はとても暖かだった。
2025.08.21.記述
◆この時期に想う事(2)
 当ページ「●虐待の始まり」で述べたが、私は父親を憎んで生きていても得るものはないと考え、父親を捨てる決意をした。(決意自体は「人生のやり直し(2)」の時期。)その後ある所で、こんな話を耳にした。
 第二次世界大戦が終わり、ドイツは戦争を起こした事を公式に謝罪した。そしてそのドイツの首相がアメリカの大統領と会談した時、首相は大統領に向かって、国の主たる者が持つべき3つの心得を挙げた。2つは誰でも納得できようが、3つ目に挙げたのは「国の主たる者、”怒り”を持たなくてはならない」という事だった。
 ここで言う”怒り”とは、”憎しみ”ではない。”怒り”とは、「今の世の中はこういうところが間違っている」「正さなければならない」という考えの事を言うのだ。
これを聞いて、私が持つべき”怒り”が見えてきたのだった。
 ただ、私は父親やきょうだい達を「正そう」とは思わない。それをしても相手の”憎しみ”を買うだけだろうし、相手も大人なのだから自分の責任で自分で正すべきだろう。私が持つべき”怒り”とは、あの家庭で植え付けられた、私の中にある「間違い」である。そしてその闘いが、自分が生きている限り続くことは覚悟している。
2025.11.08.記述

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