●見知らぬ地へ
大学を卒業となると、普通は就職を考えなければならない。一応、私も就職活動らしき事もした。背広着てある大学の先生のところへ行って話を聞きに行ったりしたけど、頭の中もまとまっておらず話も下手な状態で、「結局、何をしに来たんだ」と追い返される始末。
大体、人との付き合い方も分からないこんな状態で会社に入っても、長続きできるはずがない。自分はもういっぺん裸になって、人間をやり直さなきゃならんと自分なりに思った。
そこで、親族や知人など、いざとなっても頼る人が全く居ない土地に自分一人で行って、そこで生活することで自分自身を鍛え直そうと思い立ち、母にその旨伝えて新天地に向けて出発した。
最初にたどり着いた街の駅でこの街に住んでみようか迷いながら駅のホームでソバをすすったのだが、店員の対応が何となく冷たく感じて、たまたま出発時刻になった別の土地行の列車に飛び乗った。終着駅に着いた時は夜が迫っていたので駅周辺で安宿を捜し歩いた後、結局駅の待合室で一夜を明かすことにした。(当時は夜行列車もあるため、大きな街の駅待合室は夜間も開いている所があった。)すると、20人くらい居る部屋の向かいの座席に二十歳前後の一人の女性が座った。しばらく、そして長い時間、チラチラお互い目が合う。勇気を持って話しかけようかどうしようか。それを試すために旅に出たのではないか。迷っているうちにその女性は、駅前を大音響で車で走り回っている連中の方へ行ってしまい、乗せられて去って行ってしまった。
今もそう思うのだけれど、当時ももしかして家出してきたのかもしれないと思った。だとすれば、その女性のその後は予想がつく。あそこで一声かければ、その人も私も人生は変わっていたかもしれないのだ。そういう女性に話しかけていいのか迷いもしたが、そういう場で行動を起こせない自分の弱さを感じた一瞬であった。その場で勇気を出して行動を起こすことのできない”弱さ”に対する悩みは、その後私が馬と出会うまで続くことになる。
次の日から、街中を住居(アパート)を捜し歩いた。そして親切な管理人ご夫婦に出会い、その一室を借りることが決まった。私は大喜びで母の元へ帰って報告した。ところがあまりに喜んでしまって、最初のお金を送るのをすっかり忘れ、気が付いて連絡したところ、なかなか連絡が来ないので別の人に貸してしまったとの事。私はもう一度列車に飛び乗り、その街で別のアパートを探すことになってしまった。でも、最初のアパートの管理人さんの家には、その後も度々訪問してお世話になっている。(旦那さんは早くに亡くなられたが、奥さんの方はあれから40年経っても覚えていてくれて、今私の住んでいる地も見てみたいと即断で私の車に乗って300km走って案内したことがある。身内には知らさず~もちろん私も知らず~ガンを患っていたようで、その直後に亡くなられたと聞いて、最後にお礼ができたと思っている。)
2025.11.10.記述
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●バレーボール仲間が増える
当時私が見ず知らずの人と仲間になれる手段は、バレーボールだけだった。当地の大学のバレー部の練習に参加させてもらうと同時に、ママさんバレーのコーチをするようになる。きっかけは忘れたが、確かメンバー募集を見て一緒にバレーをさせてもらえないか訪ねて行ったところ、コーチをお願いされたのではなかったろうか。以後、当地に居る間はずっとそのチームでコーチを続けた。大学のバレー仲間も誘って、3人でコーチに通った時期もあり、ママさん達にも好評だったと思う。年末の打ち上げには旦那衆も参加して、にぎやかだったのを覚えている。当時のメンバーの顔は今も思い出す。当地を去って20年以上経って練習場に行ってみたら、皮バレーはソフトバレーに化けてはいたが当時のメンバー3~4人のほかに若いママさんも男衆もいて、楽しい汗をかかせて頂いた。
この時期ママさんバレーに関わったことは、その後の自分にとって大きな力になった。”仲間”を意識できたことはもちろん、相手がママさんで旦那衆の顔も見えたことで「正常な家庭の姿」が見えてきたこと、その後のバレー指導の原点になったことである。
2025.09.25.記述
2025.11.10.修正
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●教員免許取得のために聴講生になる
当地に来て何をしたいという事もなく、バレーの練習に参加させて欲しいと教育学部の担当の先生の所へお願いしに行ったのが最初だったと思う。その後、きっかけは忘れたが、同学部の心理学研究室(俗称、心理研)に足しげく通うようになり、「お前、面白いヤツだから教員にでもなったらどうだ?」とけしかけられ、教員を目指すことにした。当時は「でも」「しか」先生(教員にでもなろうか、教員にしかなれない)にろくな先生はいないと言われていたが、お前のような先生も必要だとおだてられたのだった。卒業した大学では教職課程を取っていなかったが、免許は取れる大学だったので必要単位の教科の分は振替が利くということで、教育学の単位だけ取ればよいと、その大学の教育学部の聴講生になった。
研究室では雑用係のような感じだったが、当時世に出始めた”パソコン”なるモノが導入され、誰も使い方を知らないというので自分の専門(工学)の計算処理に随分と利用させて頂いた。もちろんプログラミングの草分けで、自分にとってもその後のコンピューター・ワークの基礎になった。数年後、教員に失敗して大学に戻った時も、研究室の卒論生のための集計や教官の研究のための集計のプログラム製作を担当している。更にもっと後にはソフトウェア開発の会社に勤めることができたのも、この時プリンタ用紙を箱単位で湯水のように使ってしまう私を黙認してくれた教官・事務員さん達のお陰です。本当にありがとうございました。
また、研究室では近隣市町村の高校の先生方も集まって、夏の海辺のキャンプを兼ねてエンカウンター・グループという心理学の研修会が毎年行なわれていて、それにも何回か参加させてもらった。何か決まったテーマで話し合うというのではなく、集まった皆の気持ちが揺れ動く中で自分の気持ちを出していく、というような鍛錬の場であったように思う。樺太から引き揚げてきて農業を始め、その後高校の先生になった方からは、「農家は朝明るくなったら畑に出て、夕方暗くなるまで畑で働くものだ」と教わった。
2025.09.25.記述
2025.11.10.追記
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●サマー・キャンプへの参加
大学内に出入りしていて、サマーキャンプの情報に接した。大学・短大生対象で学生協が運営する大きなキャンプで、各県ごとに男女別に5~6人の班を作り、キャンプ場に着いてから別の県の男女の班を合わせて1班として4泊5日を過ごすというものである。新しい人間関係の中で自分を試してみたいと参加した。最初の参加の年は、750人の規模だった。当時はフォークソング全盛で、毎晩ファイアーの周りで全員が歌った。テントサイトでも、好きな奴はギターを持って来ていて、飯盒で飯を炊きながら皆で歌った。初日は班内顔合わせ、2日目は応援よろしく運動会、3日目はキャンプ場近辺を遠足、4日目は班をほぐして分科会、5日目お別れという日程。初めて会う人と仲間になれることに、とても感動したのだった。私はキャンプが終わるとそのまま原チャリで長い旅に出たのだが、その初夜テントの中で、周りに仲間の気配のない独りぼっちがすごく寂しかったのを覚えている。その時、「来年も絶対参加する」と心に決めたのだった。
ところが一年後、キャンプ参加者募集のチラシを見て「去年行ったからもういいや」と思ってしまった。とりあえず行こうかと申し込んで参加。そして最終日、また「絶対来年も…」と思った時、人は感動すらも忘れるものだと思い知ったのだった。以来、7回このキャンプに参加することになる。
2回目の参加は、ついに参加者1、000人規模となった。3回目は800人。しかしこの回で、これまでキャンプを支えてきた古株参加者が一度に卒業してしまったため、4回目以降参加者は減少の一途をたどり、最後に参加した時は2県でわずかに50人になってしまった。多分、そのまま消滅してしまったろう。減った一つの原因は、皆で肩組んで歌うということをしなくなったからだと思う。隣りにいる知らない人の、人としての暖かみを感じない世の中になってしまった。また、4回目の時期に世間では”カラオケ”なるものが流行り出し、ファイアーを皆で囲んで歌うはずのキャンプファイアーが、ファイアーそっちのけでステージの前に集まって皆ステージの方を向いてステージの演奏を聞くスタイルに変わってしまった。今、皆で肩組んで歌えるのは、わずかに残っている「歌声喫茶」くらいなものだろう。(私がカラオケを嫌うのは、キャンプファイアーから歌声を奪ったからでもある。大体、人の”マネ”が上手だから褒められるのはおかしい~”自分”ってものが無いじゃないか!~と思うし、拍手をしないとイヤな顔をされる形で強要されるのも納得できない。)
2025.11.10.記述
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●教員免許取得
免許を取るためには教育課程の単位だけ取れば良かったが、偶然音楽研究室(音研)の人と知り合って、音楽の先生に面白い人がいると聞いて授業に潜り込んだ。本来ならば追い出されるところだが、その先生は聴講を許してくれた。そこでJazzという世界があることを教えられる。その後市内にJazz喫茶があると聞いて、心理研の先生や学生と一緒に聴きに行ったり、ハンク・ジョーンズやカウント・ベイシーのコンサートにも出掛けて行った。この頃聴いていたJazzはまだ駆け出しだったせいかサッパリしたJazzだったが、段々泥臭い(汗臭い)Jazzに趣向が変わっていく。
また、サマー・キャンプ参加者の一人との関係もあって、心理研の先生・学生達でアフター5のジョギング(大学前を起点として10km以上のジョギングコースがあった)にも参加した。皆で走った距離の記録を付けていて、心理研の学生の一人は月150km、サマー・キャンプの彼は200kmを走った。(私も後に南国で月150kmを達成する。)
彼は大学の中では”有名人”で、学生はもちろん、先生方や事務員にも広く知られていた。彼は4年生の時に卒業に必要な単位を1つだけ取らずに残しておいて(4年制大学では8年で卒業できないと入学すらしなかったことにされる)、在籍している学部の他の学部の授業を受けて回り、8年満期で堂々と卒業して行った。彼とは同じアパートに住み、同じ酒を酌み交わし、後にはグループを組んで鳥人間コンテストに出場することになる。
と言うわけで、あまり意識しないままに教員免許を取ることができた。そして、各地の教員採用試験を受けることになる。
2025.11.27.記述
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●南国暮らし
教員採用試験を受けて採用が決まれば、今までのようにあちこち行けなくなってしまう。その前に、”あそこ”の国(地方)には住んでみたい、と、雪深い国から雪のないその国に3ヵ月ほど行くことにした。
当初、また大学にでも潜り込めればという意識はあったが、世の中そう甘くはなかった。結局、教育関連の世界には居場所は見つけられず、うろうろしている時に駅のホームで「うちで仕事しないか」と声を掛けられた。人の良さそうなオジサンだったので迷ったが、目指している方向が違うような気がして断ってしまった。今になってみれば、あの時首を縦に振れば良かったかなと思う。その後の人生が、全く違うものになっていただろう。
バレーボールの面では、現地のチームに所属して、生まれて初めてレギュラー選手として試合を経験をした。チームの中で”大事にされている”と実感した。
この地で得た一番大きなもの、それは「親切」とは何かという事だったと思う。県内の芸能(神楽)を見に行った時のことだ。観光客もたくさん見に来ていた。でも、本来は地区のお祭りである。地元のじいちゃんばあちゃんが、肩を寄せ合って見ていた。その前に、カメラを構えた観光客が立ちふさがったのである。私はよほど意見してやろうと、神楽一番終わるのを身構えて待った。
そして一番終わると、休憩に入った。テーブルが出され御馳走が並べられると、何と、後ろで見えなかったはずの地元の人達がそのカメラマンをテーブルに誘い、一緒に楽しそうに食べながら話をしているではないか。そして休憩が終わった後、そのカメラマンは後を気にしながら写真を撮っていた。それを見て、自分がやろうとしていた事を恥じたと同時に、本当の「親切」とは何かを教わったのだった。
この地の人達は、皆「朗らか」だ。あちこち住んだ地で、一番好きである。でも、結局雪深い国に帰って行った。それは、冷たい雪の下で我慢して我慢して待った春が来た時の歓び、それが自分には「合っている」と感じたからだ。自分の人生と通じるものがあったのかもしれない。
2025.11.29.記述
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◆この時期に想う事
「本当の自分をさらけ出して、自分を叩き直そう。」
そんな事をすれば、まともに人間としての教育を受けてない自分はとても恥ずかしい思いをするだろう。でも、やらなきゃならないんじゃないか。自分という人間を試して、間違った教育を受けたことで身に付いたものを捨て、正しい教育を受けれなかったことで足りないものは、周りを見て自分で探して身に付けなきゃならない。そういう思いがあった。
今、自分はそれが達成できているかと自問すると、まだまだだと思う。虐待サバイバーにとっては、一生抱えて生きていかねばならない事なのだろう。でも、「病と付き合う」という言葉もある。忘れることのできないトラウマが「治すことのできない病」ならば、「付き合う」生き方も選択肢の一つだろう。欠点だらけの自分であるが故に、欠点が無い人には理解できない他人の辛さがわかる。それは、大切な事だと思う。
この時期について、いつも不思議に思うことがある。言ってみれば、自分は野っ原にポツンと一人、立ったのである。どちらを向いても、レールはおろか、進むべき道しるべもない。なのに何故、今「正しかった」と思える道を進めたのだろうか。こっちの方角じゃないな、こっちかな、行ってみようか、まるで匂いを嗅ぐように。もしかすると、私の体の中に流れている母の血が導いてくれたのかもしれない。
この時期Jazzを聴き始めたことも、私の人生に大きく関わっているかもしれない。Jazzに引き込まれて行った第一の理由は、”人真似”ではなく自分自身の音だからだ。自分のインスピレーションでその場で音を出す、アドリブの苦手な自分にとっても手本にしたいという目標もあった。アドリブだから、誰にも相談する余裕はない。そしてその結果に対しては自身が責任を持つ。
後に聞いた話だと、Jazzの帝王と呼ばれたマイルス・デイビスは、その人生において分岐点に立った時、誰にも意見を求めず自分で決めたという。そんなところも自分に合っていたのかもしれない。2度の自分の人生やり直し、人に相談はせず決めている。お陰で、失敗しても人のせいにすることはない。自分で決めたことなのだから。
2025.08.31.記述
2025.11.29.追記
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